中国美術
中国では、1966年から1976年にかけて封建的文化や資本主義を改革する運動が発生したことから、そのときに多くの文物が中国から流出したといわれています。そのため中国本土の美術品バイヤーが日本国内に大量に流れた骨董品を買い戻しているようです。中国系の投資家たちが美術品に注目していることから、今後、中国の美術品は需要が上がっていきそうです。もし、中国の文物をお持ちでしたら、ご連絡お願いします。
瓷器
中国陶磁器の歴史はふるいもので、遼河文明・黄河文明・長江文明にみることができるようですが、この新石器時代にすでに窯から陶器が生産されていたようです。この時期の土器は、スウェーデンの地質学者ユハン・アンデショーンが河南省付近で彩文土器を発見することなり、これは、アンダーソン土器と呼ばれています。この後、先史時代における遺跡の発掘調査が進んだことで、灰陶が各地の遺構で出土していることから、還元炎焼成ができる窯から陶器を造りだしていたことが明らかになりつつあるようです。そのあとB.C.14世紀頃の中国最古の王朝とされている殷代になると、龍窯(りゅうよう)と呼ばれている斜面を上手く活用して、釉薬を用いた原始青磁が江西省清江県呉城で造られていたようです。しかし、殷代の遺跡から出土していた陶片のなかで、灰釉陶器が発見されているが、それほど生産された痕跡は見受けることができませんでした。
そして、各地の遺構の調査が進行していくと、秦代の始皇帝が埋葬された陵墓が、中国陝西省西安市の驪山付近で発見されることになるが、この秦始皇帝陵は、当時、偶然に地元の農夫が井戸を掘っていたところ兵馬俑が出土したことが契機になった。以前から、この地域では水を枯らす化物がいるという伝承があったらしいが、いままで発掘されることなく数千年の時を刻んでいたが、本格的な調査が進むにつれて、未発掘の状態の地下宮殿は、文物を保護する観点から発掘は進んでない状態です。ここの陵墓で出土してきた兵馬俑は、加彩灰陶でつくられたの陶器人型と軍馬などが発掘されているようです。このように墳墓の副葬品として、目的に応じてさまざまな俑がつくられていったようです。
漢代になると陶磁器を造るための焼成技術と窯構造が向上したことで、青磁と呼べるような焼造ができるようになっていったようです。釉薬の色彩に変化をだすことができる鉛釉陶器が普及していったようですが、三国時代から東晋にかけて、副葬品として墳墓から出土したものは、越州窯のふるい時期に制作された青磁で、神亭壺と呼ばれる陶磁器は、特殊な形状になっており、壷の上に楼閣をのせて、死者の魂を天空に運び胴回りに鬼面が配されているのは、魔除けとされています。隋代になると、河北省の邢州窯で、白素地の胎土に無色の釉薬をかけた白磁が造られるようになり、唐代頃になると、交易している諸外国に青磁や白磁の陶磁器が流れるようになります。
このころの長安や洛陽で、墳墓の副葬品に三彩陶器が使われていたようです。唐代以後になると、高貴な人物が持つ碧玉色の青磁が、文人や貴族たちに好まれるようになりました。南宗時代になると青磁の最盛期になり、陝西省の耀州窯、浙江省の南宋官窯では、良質の青磁を生産することで名窯として知られるようになっていきました。元代になると浙江省の龍泉窯では、輸出用の青磁が大量に造られてきますが、ここの窯で焼造された青磁が、勘合貿易によって日本国内もたらされたようです。このころ釉下彩の技法が景徳鎮窯で向上してきたころより、白地に青い文様を浮き立たせる青花と呼ばれる陶磁器が造られるようになりました。
明代になると御器廠(ごきしょう)と呼ばれる政府が直営している陶磁器の工房が設けられて、皇帝御用達の陶磁器が焼造されることになります。おもに景徳鎮の官窯で造られた明代の陶磁器は、各代の皇帝が治めた年号の年款銘として入れて、その時期に制作されたことを印した作品があります。窯業の中心地になっていた景徳鎮では、陶器の原料となる胎土や薪の松材が豊富にとれたことから、官窯が設置されることになっていくが、宮廷御用の磁器であるので、官様式の典型的な文様などが使われることになり、各年号ごとに特徴のある作風があらわれているようです。
これに対して、明末頃から景徳鎮の民窯で造られた陶磁器が諸外国に輸出されるようになると、景徳鎮では、諸外国の注文に応じて陶磁器を作製するようになりました。清代になると陶磁器の最盛期を迎えることになり、絵付けの技法や焼成技術が格段に向上していったことで、細緻な陶磁器を作製することができるようになりました。清の四代皇帝の康熙帝は、窯業の再興をしようと陶磁器に熟知している監陶官を景徳鎮の官窯に配属したことで、康熙年間の陶磁器は、多様な技法で造られたものが多くあるようです。
宋代の五大名窯 | 汝窯(じょよう)、官窯(かんよう)、哥窯(かよう)、定窯(ていよう)、鈞窯(きんよう) |
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歴代の景徳鎮官窯
- 明洪武年官窯
- 明永楽年官窯
- 明宣徳年官窯
- 明成化年官窯
- 明正徳年官窯
- 明嘉靖年官窯
- 清康煕年官窯
- 清雍正年官窯
- 清乾隆年官窯
- 清嘉慶年官窯
- 清道光年官窯
- 清同治年官窯
- 清光緒年官窯
など
代表的な陶磁器
官窯、彩文土器、俑、明器、加彩灰陶壺、緑釉、灰釉、青磁神亭壺、唐三彩、天目碗、青花(染付)、五彩、雑彩、金襴手、古赤絵、法花、万暦赤絵、白磁、粉彩、青磁(砧青磁、天龍寺青磁、七官青磁、飛青磁、高麗青磁)、呉州赤絵、古染付、祥瑞、釉裏紅、素三彩、桃花紅、炉鈞釉、茶葉末釉、烏金釉、朱泥、紫泥、ブラン・ド・シーヌ、倣古採今、甜白、豆彩、芙蓉手
など
玉器
いまからB.C.3100から2200頃にかけて揚子江狩下流の周辺に分布していたとされる良渚文化の遺構から、装身具や祭祀儀礼に活用されていたと推測されている軟玉が多数出土しました。この文化では、祭政一致の体制ができており、祭壇や墳墓の跡地から、半宝石の装身具や祭祀用の道具になるような玉器が発見されているが、そのなかで神の紋章が彫り込まれた玉鉞は、地上を支配するときに天命を受けた人物が所有していたようで、良渚文化では、精密に玉を加工することで、権威の象徴や政教の道具として使用していたようです。このような玉器文化から出土した宝庫は、考古的な遺物になるようなので、歴史的な証左を検証していくための重要な文物といえるかもしれません。
玉器の種類
玉圭(ぎょくけい)、玉璋(ぎょくしょう)、玉璧(ぎょくへき)、玦状(けつじょう)、玉瓏(ぎょくろう)、玉札(ぎょくさつ)、彫玉(ちょうぎょく)、玉蝉(ぎょくせん)、琮(そう)、垂飾(すいしょく)、小玉(こだま)、瑞玉(ずいぎょく)など
字画
中国の伝統的文化から生じた書画の作品群は、清朝末期の政治的な動乱のときにかなりの数の中国書画が、日本国内に流入してきたといわれています。とくに江戸期から明治初期ごろにかけて、社交界では、明清の文人文化を取り入れて、中国の文物を賞翫をすることがおこなわれていたようなので、明清画が財閥系のコレクションになっていたり、名家の貯蔵品になっていったようです。これらの中国書画は、近年の中国美術品の高騰によって、里帰りしている作品が増えてきているようです。これらの明朝・清朝の書画は、中国富裕層の投機対象として、売買が活発におこなわれています。
さらに宋元画は、桃山時代以前に舶来しているものがあるので、院体画・水墨画・仏画などは、名品が多いようです。そのため時代のふるい中国書画の作品は、日本の美術に影響を与えながら、芸術的な創造力を喚起していったようです。その一方で、現在、中国本土から流出していった書画の名品を、中国系バイヤーが買い戻しにきているようです。
主な作品
山水画、水墨画、文人画、南宗画、院体画、金陵八家、揚州八怪、明朝の絵画、明清の書画、來舶画人作品、中華民国の書画、など
*なお、各時代の強化買取作家は、元・明・清・民国にわけてあります。
木器
中国の宋代ごろから盛んにおこなわれた漆工技法の剔紅(てっこう)は、朱漆を素材に塗り重ねて漆の層を形成させて、その断層に繊細な彫刻する方法で、芸術的な漆芸品が生み出されていきますが、この彫漆と呼ばれる技法は、各時代の特徴がでているようです。あるいは、唐代に流行した平脱の技法では、金属製の薄板を漆地の文様にあわせて張り付けていくものです。さらに、古代中国の填彩技法として、漆の表面に細かい文様を彫り込んで、その溝になったところに金泥や金箔、銀泥などを擦り込んで文様を浮き立たせる沈金があります。さらには、明代ごろに開発されたといわれる装飾方法のひとつに、器胎に別の彩漆を埋め込んでいき色彩の濃淡をだすことで、色調に変化をだす技法は、存星として伝えられているようです。もしくは、夜光貝やアワビ貝などの貝殻を漆面の文様にあわせて嵌め込んでいく螺鈿または、漆器に何層も重なっている中塗の面を線彫りしてから、その凹凸に色漆を充填する蒟醤(きんま)などがありますが、これらの中国漆器の工芸品は、凡そ六千年前ぐらいから制作されていたようです。
主な作品
漆工技法 | 剔紅(別名を堆朱)、剔黒、剔黄、剔緑、平脱、屈輪、沈金、存星、 螺鈿、蒟醤など |
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漆芸品 | 堆朱盆、堆黒盆、堆朱酒呑、犀皮盆、堆朱長方形箱、堆朱碗、彫長方盆、堆朱方勝形箱、円盒、挿屏、三層套盒、長方盒、四角香合、堆朱七宝花瓶 、存星盆、存星盒子、存星花盆、など |
元代の漆芸名工 | 張成、楊茂など |
明朝代の漆芸名工 | 楊塤、方氏など |
銅器
古代中国では、青銅器を用途に応じて飲食用の食器にしたり、祭事用の神聖な道具にすることで、複雑な形状にしたり、細緻な文様が彫り込まれています。このような銅器を活用した中国の王朝は、紀元前17世紀ごろの殷王朝だとされています。これらの青銅の工芸品は、鉄器が主力になるまでの古代中国では、夏后・商朝・周の三代と、漢王朝で独自に発達したといわれています。
青銅器の種類
器種 |
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文様 | 饕餮文(とうてつもん、夔龍文(きりゅうもん)、鳳文(ほうもん)、夔鳳文(きほうもん)、蟠螭文(ばんちもん)、竊曲文(せっきょくもん)、鱗文(りんもん)、蝉文(ぜんもん)、山形文(やまがたもん)、蕉葉文(しょうようもん)など |
印材
篆刻作品は、印証や印綬に用いられますが、彫刻が施された工芸品としての美術的な価値があり、貴重な天然石がつかわれていることがあります。そのなかで、印石三宝があり、田黄石、鶏血石、芙蓉石で作られた印材は、評価が付けやすいものになります。その印材が印綬として作成されているものは、その官職の位階や勲等を象徴するものになるので、中国の著名な臣下の印章であれば、評価が良いものになる可能性があります。
印材の色合い
田黄石 | 枇杷黄、硬田、鶏油黄、金抱銀、銀抱金、渓管独石 |
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鶏血石 | 昌化鶏血石、巴林鶏血石 |
芙蓉石 | 白芙蓉、黄芙蓉、紅芙蓉、巧色芙蓉、芙蓉凍、花紅凍芙蓉、芙蓉晶、粘岩芙蓉、将軍洞芙蓉 |
文房
中国の文房具は、硯、墨、筆、紙を文房四宝として、詩書画に精通している文人たちは、道具類を大切にしてきたようです。とくに、硯は墨をするときに、ほどよい硬さと表面の滑らかさがないと、良い墨色はでないとされています。そのため良質の天然石が活用されてきましたが、骨董的な価値を有しているのは、採石年代がふるい古硯が良いとされています。それと墨色が美しくでるのは、数十年以上経過していて、かつ良質の煤と膠がつかわれていないと、良い古墨とはいえないようです。良筆の条件は、穂先が尖っていて全体がよく整っていることで、筆運びのよい弾力があることです。そして、澄心堂紙(ちょうしんどうし)と呼ばれる紙は、滑らかで潤いと光沢があり、きめ細かく堅い品質をしており、中国では好まれているようです。
中国古硯
硯石 | 採石年代 | 産地 |
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鶏血石 | 唐代、五代、宋代、元代、明代、清代 | 広東省の山麓 |
歙州石 | 唐代、五代、宋代、元代、明代、清代 | 安徽省の竜尾山山麓一帯 |
洮河緑石 | 北宋中期 | 甘粛省の卓尼県洮硯郷 |
紅糸石 | 唐、宋代 | 山東省の黒山 |
中国歴代の画人と書人について
このなかでも中国歴代の画人や書人は、市場で活発に取り引きされていますので、ここでは、各時代に著名であった作者をあげていきます。これらの作家作品のものは、評価が付けやすいものになります。
元代(西暦1279年~1367年) | ||
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因陀羅 Yin-tuo-luo | 王淵 Wang Yuan | 王振鵬 Wang Zhen-peng |
王冕 Wang Mian(1335-1407) | 王蒙 Wang Meng(1308-1385) | 柯九思 (1290-1343) |
管道昇(1262年-1319年) | 顔輝(生没年不詳) | 古林清茂 Gu-lin-ging-mao(1262-1329) |
倪瓚 Ni Zan (1301-1374) | 月江正印 Yue-jiang Zheng-yin(1267-不詳) | 呉鎮 Wu Zhen(1280-1354) |
高克恭 Gao Ke-gong(1248-1310) | 黄公望 Huang Gong-wang(1269-1354) | 蔡山 |
子庭祖柏 | 竺田悟心 | 朱徳潤 Zhu De-run(1294-1365) |
盛懋 Sheng Mao(生没年不明) | 雪窓普明 Xue-chuang Pu-ming | 鮮于枢 Xian-yu Shu(1256-1302) |
銭選 Qian Xuan | 楚石梵琦 Chǔ shí fàn qí(1296-1370) | 曹知白 Cao Zhi-bai(1272-1355) |
孫君沢 Sun Jun-ze(生没年不詳) | 中峰明本 (1263-1323) | 趙孟頫 Zhao Meng-fu(1254-1322) |
唐棣(?-1364) | 独孤淳朋 | 任仁発 Ren Ren-fa(1254-1327) |
馮子振(1257-1327) | 兪和 | 李衎 Li Kan(1245-1320) |
陸信忠 Lu Xin-zhong | 劉貫道 Liu Guan-dao(?-1279) | 了庵清欲 Liao-an Qing-yu(1288-1363) |
霊石如芝 | ||
明代(西暦1368年~1661年) | ||
王建章 生没年不詳 | 王鐸 (1592-1652) | 王寵 |
王紱Wáng Fú(1362-1416) | 王問 | 夏昶 (?-1470) |
仇英 (1494-1552) | 居節 | 邢侗 Xíng Tóng(1551-1612) |
倪元璐 Ní Yuán lù(1594-1644) | 呉偉 Wu Wei(1459-1508) | 呉寛 Wu kuan(1435-1504) |
呉彬 Wu Bin(1573-1620) | 項元汴 Xiang Yuan-bian(1525-1590) | 項聖謨 (1597-1658) |
謝時臣 Xie Shi-chen(1487-1557) | 周臣 Zhōu Chén | 祝允明 Zhu Yun-ming(1460-1526) |
簫雲従(1591-1668) | 徐渭 Xú Wèi(1521-1593) | 徐賁 Xú Bēn(1335-1393) |
徐璉(1468-1544) | 沈周 Shen Zhou(1427-1509) | 石鋭 |
銭穀 (1505-1578) | 宋旭 sòng xù(1525-1606) | 宋懋晋 |
戴文進 | 張羽 | 張宏 |
張瑞図 (1570-1640) | 張路 Zhang Lu(生没年不詳) | 趙左 Zhao Zuo(1573-1620) |
陳継儒 Chen Ji-ru(1558-1639) | 陳賢 (生没年不詳) | 陳洪綬 Chen Hong-shou(1599-1652) |
陳淳 Chen Chun(1484-1544) | 唐寅 Táng Yín(1470-1523) | 姚綬 (1422—1495) |
董其昌 Dŏng Qí-chāng(1555-1636) | 馬琬 (生没年不詳) | 莫是龍 (1539-1587) |
傅山 Fu Shan(1607-1684) | 文嘉 (1501 – 1583) | 文徴明 Wén Zhēng míng(1470-1559) |
文伯仁 Wén bó rén(?-1577) | 文彭 Wén péng(1498—1573) | 米万鍾 Mi Wan-zhong(?-1628) |
辺文進 Bian Wen-jin(生没年不詳) | 楊文聰 (1596-1646) | 藍瑛 Lán Yīng(1585-?) |
李在 Li Zai(生没年不詳) | 李士達 Lǐ Shì dá(生没年不詳) | 李日華 (1565-1635) |
劉珏 (1410-1472) | 林良 (生没年不詳) | 呂紀 Lǚ Jì(生没年不詳) |
清代(西暦1662年~1911年) | ||
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伊孚九 Yi-fu-jiu(1698-?) | 伊秉綬 Yi Bing-shou(1754-1815) | 惲格 (1633-1690) |
王学浩 (1754-1832) | 王鑑 Wáng Jiàn(1598-1677) | 王翬 Wang Hui(1632-1717) |
王原祁 Wáng Yuán qí(1642-1715) | 王時敏 Wang Shi-min(1592-1680) | 王宸 Wáng Chén(1720-1797) |
王文治 Wáng Wén zhì(1730‐1802) | 翁方綱 Wēng Fāng gāng(1733‐1818) | 何紹基 Hé Shào jī(1799‐1873) |
華嵓 (1682-?) | 虚谷 Xu-gu(1824-1896) | 龔賢 Gong Xian(?-1689) |
金農 Jin Nong(1687-1763) | 桂馥 Gui Fu(1737-1805) | 奚岡 Xi-Gang(1746-1803) |
阮元 Ruan Yuan(1764-1849) | 呉熙載 Wu Xi-zai(1799-1870) | 呉大澂 Wu Da-cheng(1835-1902) |
呉歴 Wú Lì(1632-1718) | 江稼圃 (生没年不詳) | 弘仁 Hong-ren(1610-?) |
洪範 Hong-fan | 洪亮吉 Hong Liang-ji(1746-1809) | 高鳳翰 Gāo Fèng hàn(1683-1748) |
高其佩 Gao Qi-pei(1672-1734) | 黄易 Huáng Yì(1744‐1802) | 朱耷 (1626-1705) |
沈宗骞 (1736-1820) | 沈宗敬 (1669-1735) | 沈南蘋 Shen Nan-pin(1682-?) |
石濤 Shi Tao(1636-1714) | 銭杜 Qián Dù(1764-1845) | 戴熙 Dài Xī(1801-1860) |
張庚 (?-1760) | 張洽 (1718-1799) | 張宗蒼 zhāng zōng cāng(1686-1756) |
趙之謙 Zhao Zhi-qian(1829-1884) | 陳鴻寿 Cheng Hongshou(1768-1822) | 鄭燮 Zheng Xie(1693-1765) |
董誥 | 董邦達 Dong Bang-ta(1699-1769) | 鄧石如 Deng Shi-ru(1743-1805) |
任伯年 rèn bó nián(1840-1896) | 潘存 | 馮金伯 (1738-1810) |
蒲華 pú huá(1830-1911) | 包世臣 Bao Shi-chen(1775-1855) | 毛奇齢 Mao Qi-ling(1623-1716) |
楊守敬 Yáng Shŏu jìng(1840-1914) | 羅牧 Luo Mu(1622-1706) | 藍瑛 Lán Yīng(1585-1664) |
李漁 Li Yu(1611-1680) | 李寅 | 李鱓 Li Shàn(1686-1762) |
劉墉 Liu Yong(1719-1804) | 郎世寧 Lang Shi-ning(1688-) |
中華民国(西暦1912年~現在) | ||
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于右任 Yü You-jen(1879-1964) | 王一亭 Wang Chen(1867-1938) | 郭沫若 Guo Moruo(1892-1978) |
呉湖帆 wú hú fān(1894-1968) | 呉昌碩 Wu Ch’ang-shih(1844-1927) | 黄賓虹 Huáng Bīn hóng(1865-1955) |
徐悲鴻 Xú Bēi hóng(1894-1953) | 斉白石 Qi Baishi(1863-1957) | 王張大千 Zhang Daqian(1899-1983) |
潘天寿 (1897-1971) | 傅抱石 Fù Bào shí(1904-1965) | 李可染 li kĕ rǎn(1907-1989) |
仏教美術
六世紀頃、古代日本に仏教が伝来してから各地域に数多くの宗派が派生するようになり、各寺院に現存している仏像・法具や絢爛豪華な工芸品が残存しています。そのなかで、厨子に安置された仏像が高名な仏師によって、製作されたものだったりすることもあります。これらの歴史的な証左を残す仏教の美術品は、評価がたかいものになります。
仏像の種類と制作技法について
現在のインドのウッタル・プラデージュ州に位置するところに、古代のコーサラ国カピラ城の王子として紀元前5世紀前後ごろに、誕生したゴータマ・シッダールタが、人生の苦悩を解決するため求道者となり、最終的には仏陀となって、教化と伝道の旅に出ることになったようです。そして、釈迦の入滅後、仏の教えが各地に伝播していくことになりますが、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて伝承された大乗系の仏教では、仏の姿を写した御影として、仏像や仏画がたくさん制作せれることになります。これらを芸術的な観点から鑑賞していくと、仏教に関係している美術は、歴史的な芸術品といえるかも知れません。
仏像の種類
如来部 | 釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、阿閦如来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来、宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来、普賢王如来、多宝如来、毘盧遮那仏、燃燈仏、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏、天王如来 、大通智勝如来、世自在王仏など |
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菩薩部 | 文殊菩薩、普賢菩薩、薬王菩薩、薬上菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、弥勒菩薩、観音菩薩(三十三身)、勢至菩薩、日光菩薩、月光菩薩、金剛薩埵、龍樹菩薩、馬鳴菩薩、常不軽菩薩、大権修利菩薩など |
明王部 | 不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、愛染明王、孔雀明王、大元帥明王、烏枢沙摩明王など |
天部 | 梵天、帝釈天、持国天、広目天、増長天、多聞天、大自在天、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、鳩摩羅天、摩利支天、歓喜天、那羅延天、鬼子母神、荼吉尼天、金剛力士、日天、月天、地天、火天、水天、風天、焔摩天、天龍八部衆(天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)、伎芸天、執金剛神、金剛力士、摩利支天、十二神将、深沙大将、二十八部衆など |
垂迹身 | 恵比寿神、蔵王権現、飯縄権現、秋葉権現、泰山府君、摩多羅神、八幡大菩薩、青面金剛など |
高僧&聖人 | 伝教大師、弘法大師、空也上人、親鸞聖人、達磨大師、聖徳太子、日蓮聖人、一遍上人、鑑真和上、役行者、羅漢、維摩居士、善財童子、各宗派の高僧像、など |
海外の仏像&仏画 | 歓喜仏、タンカ、チベット系仏像、中国系仏像、ガンダーラ仏、上座部系仏像、高麗仏画、仏塔、仏頭など |
仏像の素材と技法について
金銅仏 | 鋳造した仏像の表面に鍍金を施して仕上げていく方法で、造像の素材となるのは、金や銀、銅、鉄などの金属製のものがあり、経年劣化で金が剥落していることがある。 |
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乾漆像 | 漆と麻布を材料として、土台となる像を粘土で形成したあと、その表面に何枚も麻布と漆を塗り重ねて型ができたところで、中身を取り出して、その空洞になっているところに骨組みを入れていく脱乾漆という方法がある。さらに木心乾漆という方法は、原型の木彫像となるものに木粉や繊維屑を練り混ぜた漆をかけていくやり方。 |
塑像 | 骨組みになる心木に柔らかい藁を巻き付けて、そのうえから粘土や石膏などの材料で肉付けてしていく方法があります。 |
木彫像 | ひとつの木材から一体の仏像を細密に彫り上げていく一木造りと、いくつかの木材を組み合わせて仏像を作り上げていく寄木造りは、それぞれ利点があるようです。一木造りの仏像は、一本の良質の木材から加工できるため、高級な木材となる白檀・紫檀・栴檀などの芳香のある素材から造ることができますが、大型の仏像を制作するのは不向きのようです。そのため大型の仏像を制作するときは、仏像の各部分を組み立てていく寄木造りが活用されているようです。 |
石像 | 素材となるのは、岩石や岩窟などの天然石をもちいた彫刻が中心になるようですが、庶民の信仰とともに江戸期頃に石仏が造られたようです。 |
各時代の仏師と流派について
飛鳥時代の寺院造営と造仏のときなどは、当時の官職だった造寺司の監督のもとに、官立の造仏所に仏工は所属しながら、仏像の制作をおこなっていたが、時代の変遷によって、造営組織が解体していくと仏工たちの活動する範囲がひろがり、各国の仏師たちは、皇室や摂関家、大寺院などから制作依頼を受けることで、仏像・仏画などを手掛けていったようです。仏師集団は、室町時代になると奈良の宿院で住み込みをしていた宿院仏師と呼ばれる集団がでてきます。もともと番匠として木造建築に関わってきた集団でしたが、仏師の技巧を習得した者たちは、依頼先に給金を貰いながら仏像を制作する仏師屋になっていきます。とくに室町末期から桃山にかけて、南都住宿院仏師と呼ばれる俗人の仏師たちが活躍していきます。それらの造仏する各流派は、現代の職人仏師たちに継承されていきます。
著名な仏師たち
中世 | ||
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流派 | 仏師 | 工房 |
院派:鎌倉時代の一派 | 院助、院覚、院朝、院尊、院実、院範、院賢、院尚、院慶、院康、院誉など | 七条大宮仏所、六条万里小路仏所 |
円派:鎌倉時代の一派 | 長勢、円勢、長円、賢円など | 三条仏所 |
慶派:平安末期から江戸時代にかけての一派 | 頼助、康慶、運慶、快慶、湛慶、定覚、定慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助、康正、行快、栄快、長快など | 七条仏所 |
善派:鎌倉時代の一派 | 善円、善慶、善春、善増など |
近現代 | ||
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阿井瑞岑(1896-1970) | 岩本凌慶(1952~) | 宇津野善光(1950~) |
宇野孝光(1967~) | 江場琳黌(1943~) | 江場琳觀(1973~) |
江里康慧(い1943~) | 金丸悦朗(1944~) | 斎藤侊琳(1937~) |
櫻井琮山(1945~) | 櫻井琮夕(1976~) | 櫻井覺山(1978~) |
須藤光昭(1945~) | 関侊雲(1973~) | 先崎宗岑(1944~) |
高田又四郎(1847-1915) | 高村東雲(1826-1879) | 高村光雲(1852-1934) |
中川大幹(1951~) | 長田晴山(1920-2010) | 長田晴鳳(1957~) |
野崎宗慶 | 松本明慶(1945~) | 服部三之助 |
服部三文助 | 服部俊慶(1947~) | 平野富山(1911-1989) |
平野千里(1948~) | 福井照明(1947-2015) | 福崎日精 |
松田瑞雲(1953-) | 松久朋琳(1901-1987) | 松久宗琳(1926-1992) |
向吉悠睦(1961~) | 村上湛雲(1950~) | 安田明玄(1956~) |
山崎祥琳(1951~) | 大和宗雲(1951~) | 山本瑞雲(1867-1941) |
米原雲海(1869-1925) | 渡邉宗雲(1957~) |
取り扱い法具
曼荼羅、経机、おりん、数珠、香炉、銅鑼(どら)、木魚、払子(ほっす)、如意(にょい)、須弥壇、前机、密教法具、古経など
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