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西部開拓時代のビリー・ザ・キッドの肖像写真数億で落札される‼

19世紀のアメリカの西部開拓時代にアウトローとして名を馳せたビリー・ザ・キッドは、よく西部劇の無法者として映画化されています。

 

そのため義賊として人気があった彼は、闇討ちにあって死亡したとされていますが、その墓は、アメリカニューメキシコ州オールド・フォート・サムナー墓地にウィリアム・H・ボニーとして刻まれています。

 

この墓石は、人気のためか削り取られたりすることがあったので、鉄格子で囲われていますが、墓碑には、[Truth and History 21 Men The Boy Bandit King He Died As He Lived]-William H.Bonney “Billy the kid”とあります。

 

彼は真実にして歴史上の無法者の王者のごとくわが道を貫いた…、このことからも、西部で名が通っていた人物だとわかりますが、彼を一躍有名にしたのは、ニューメキシコ準州のリンカーン郡で発生した二大派閥の闘争です。

 

この事件は、リンカーン郡戦争と呼ばれていますが、彼が24歳のときに牧場経営者で商人だったジョン・H・タンストールの用心棒として雇われていたのですが、リンカーン郡の商売を牛耳っていた雑貨店「ザ・ハウス」の所有者として知られるジェームス・ドランとジョン・H・ライリーの策謀によって、牧場経営者のジョン・H・タンストールは、射殺されてしまう。

 

タンストールが抹殺された理由はいくつかあるようですが、この地域では、L.G.マーフィーとジェームス・ドランが勢力を伸ばしていたところで、企業と政治の癒着があり、賄賂が横行していたようなのですが、これを良しとしない正義感の強いタンストールは、その不正を新聞社に投書してしまい命を狙われるようになったようです。

 

そこで、ジェームス・ドランの派閥に対抗するために結成された「レキュレーターズ」が、無法者たちを取り押さえるための代理人として立ち上がりました。

 

このときのビリーの死闘が凄腕のガンマンとして映画等で描かれたことから、一躍、人気がたかまったことから、彼に類するような遺品は、高価に取り引きされているようです。

 

彼の写真は、当時、アメリカカルフォルニア州の中古品店で三枚セットで2ドルぐらいで販売されていましたが、その人物がいったい誰なのかわからなかったようで、西部開拓時代の収集をしていた人物が購入したことで、その写真の身元が判明したようです。

 

それらのものを検証したのが、西部開拓時代の古物を専門に取り扱っているケイガンズで、その写真がたしかにビリーのものであると徹底的な調査をしています。

 

これらの写真は、オークションにかけられて数億円で落札されたようです。

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