稀代の贋作者、古瀬戸焼「永仁の壺」で世間を騒がす‼
桃山時代の陶芸を研究している過程で、鎌倉時代の古瀬戸の窯趾から、それらの技法と素材を研究していた加藤唐九郎は、ついに古瀬戸の陶芸作品を造り上げてしまう。
これらの作品が後々、物議を醸しだすことになります。
この陶芸家は、大正から昭和にかけて活躍した人物で、昭和27には、織部焼で人間国宝となりましたが、「永仁の壺事件」以降、昭和36年に無形文化財有資格の認定を取り消されましたが、作陶意欲は衰えることなく数々の作品を造り上げていきます。
そのため彼の造り上げた作品は、その時代の作品をそのまま再現することのできる技巧があったことから、陶芸品を蒐集をされている方々や陶芸界では、人気があるようです。
では、疑惑のあった「永仁の壺」事件は、いったい何だったのでしょうか。
この出来事の背景にあったのは、ひとりの陶芸家が造り上げた作品の真贋を見抜けなかった専門家たちの失態にあるかもしれません。
当時、文部技官をしていた中国の古陶磁や古窯址の調査研究をしていた小山富士夫氏は、国内の文化財が海外に流出することを懸念していたことから、早急に文化財にしないけない作品のひとつに鎌倉期の古瀬戸があり、それが鎌倉期の永仁年製の銘があった瓶子だった。
このころ小山氏は、中国の古窯の調査をしていたところ、白磁で有名な定窯を発見していることから、東洋の陶磁研究界の重鎮になっていた。
その小山氏の後押しがあったからこそ、当時、疑惑のあった永仁の壺は、文化財に登録できたのかもしれない。
そこから、この瓶子が捏造だと分かったのは、永仁の壺が文化財に登録されてから、約一年たったころだったようです。
当初から永仁の壺は、疑惑が持ち上がっていたことから、文化財調査官に就任していた小山氏は、地元の研究者や陶工たちに聞き取りを開始することで、贋作の可能性が濃厚になってきたが、まだ、確証となるものがなかった。
そこで、地元の郷土史を正確に伝えていくため陶芸関係の研究家や愛陶家たちが連盟することで、文化財になっていた「飴釉永仁銘瓶子」の不自然で作為的な造りを調査していくことになります。
これらの証拠をもとに、この壷の関係者として疑惑のあった唐九郎本人に問いただしたところ、すべて唐九郎が段取りを決めて捏造した瓶子だったことを仄めかす証言がでてきたが、捏造した事実を認めることはなかった。
このような経緯があったことで、鎌倉期に造られたであろう永仁の壺は、文化財指定が取り消しとなり、唐九郎は、無形文化財の有資格者の認定を取り消されることになった。